私は20代の頃よりかれこれ二十余年、群発頭痛に悩まされています。

群発頭痛は、三大激痛の一つだとかいろいろ言われていますが、私にしてみればなんとも救いようのない頭痛だと思っています。

夜な夜な、激痛とともに眠りの淵から目を覚まさせられます。
煮凝った夢の淵の割れ目から、甲高い電子音が聞こえてきて(きっと、覚醒しながら自分の耳鳴り!の音が聞こえてくるんだと思います)不思議な映像を見ます。
群発頭痛は、その激痛によってノンレム睡眠からレム睡眠へと強制的にもちあげるのか、痛みが映像となって夢に現れてくるのです。

例えば、深い暗い色の池から飛び立つ白鳥たちの群れ、暗闇に放射される光の帯。だいたいは、暗い背景に対して明るい何か、というコントラストの強い映像。やがてその映像は、実は頭痛であることをその夢の中で気付かされるのですが、自分はそれを頑として認めたくない。
でも、映像はやがて収斂されていって、超新星のような輝きになって、私の頭の奥に鎮座し、それから確実な激痛として実体を伴って私に覆いかぶさって、その時がやってきたことを否応なく教えてくれるのです。

この頭痛は、激痛と絶望を私に与えてくれます。
日常は、徐々に色を失っていって、無彩色になっていきます。まるで砂を噛むような毎日。

これは、まるで安部公房の小説ような世界。

日常の中に、絶望が潜んでいる、有機体とも無機質とも捉えられず、どこからともなく侵食してくる砂のような絶望感。

そういえば、安部公房を読み始めた時期と、群発頭痛を患った時期は同じくらいだな、とふと考えてしまいました。

私の群発頭痛観は、まさに安部公房の世界となんとなくシンクロしてしまうのかもしれません。


 

 
カテゴリー: 群発頭痛

zaturendo

中小企業社内SE。

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