1995年1月17日、当時、まだ呑気な学生であった僕にとって忘れがたい記憶となった「阪神大震災」1

最近、その地震直後に僕が書いた手記が発見されました。

 

 

この手記は、1995年1月17日から1月20日の間に書いていったもので、当時、おそらく NEC の文豪mini5 HG で書いたものを、その後 FM-TOWNS Linux 上でTEX の勉強がてらに写し直して紙に印刷したものが、古いルーズリーフのバインダーの中から見つかりました。

このまま埋もれさせておくのもあれだなぁ、と思ったので、個人名など固有名詞は伏せるなどして、そのままここに残しておくことにします。

 

1.17 朝の一幕

きょうは、全くもってとんでもない一日であった。悪夢。夢であれば、早く覚めてくれ、と祈らんばかりの一日。

今日、僕が眠りについたのは、午前三時くらいだったろうか。今までの、平和で安穏な生活に、どっぷり浸ったまま、いつもと同じ眠りについた。

不思議な夢をみていた。その記憶も、あまり形を伴わないが、なんというのか、不具になってしまった自分自身、という連想だけが、煮凝りのように頭の片隅に残っているのが思い出される。

その時であったのかそうで無かったのか良く分からないが、— えてして、寝起きの一時というのは、絶対時間よりも、相対的時間の方が優先されるようである — 始めの揺れで目が醒めた。後でも述べるが、いつもの群発地震か、とぼんやり考えながら、いまだ暗い部屋の天井を眺めていた。

この群発地震というのは、猪名川市2を中心に発生したもので、京都、神戸にまでまたがって影響していた。この地震、癖があって、最初に北の方から低く唸る地鳴りが寄ってくるのを感じ、その直後に、がたがたとたてに揺れるのである。ある深夜には、地鳴り、縦揺れ、五分の空白、地鳴り、縦揺れと、立て続けに二回の地震が襲ってきたっこともある。しかも、この局地的な地震は、ニュースでも報道されることがなく、周辺住民にとっては、不気味なものであった3

 

追記 — 今ニュースで、R1764以北の宝塚市のガス供給をストップしたとのこと。今夜は寒い一日になりそうだ。pm 5:45

 

ある時、地震のあった翌日、バイト先5で店長に地震のことを聞いたところ、「夢や」と言われてしまった。それでもまあ、後日あったニュースの特集で、この群発地震のことをやっていたので、僕は名誉挽回できたのだが。

そうそう、ニュースの特集では、この群発地震は、大きな地震にはつながらないと言っていたのを思い出した。

話が横に逸れたが、初期微動で目の覚めた私は、

 

追記 — ただ今、また弱い余震があった。pm 6:00

 

いつものことか、と思いながら、その揺れに身を委ねていた。だがしかし、その揺れも徐々に強くなり、やがて狂ったような横揺れが続いた。後で聞いたところによると、揺れのつづいた時間は、約一分ほどだ、ということであったが、さっき書いたように、特殊な状況下でも、相対的時間の方が優先されるようである。

ガラス瓶が、ぶつかり合いながら転がり落ちる音(私の部屋のタンスのうえには、酒瓶があり、更にその上にPIXY6の高音用スピーカーをおいている)、枕元のすぐ横に、酒瓶がすごい音を立てて落ちた。(瞬時に、ワープロ7の上に落ちたのだとわかった)後何やら落ちる音、そして家が呻き、大地が鳴る。やがて静寂。

揺れがおさまっても、まだ、体がぐらぐら揺れているような感じ、この心臓の鼓動の高鳴りが、体を揺らしているのだろうか。

意識が、平常に戻ってくると、近所の住民の喧騒、犬が恐怖に泣き叫んでいるのが聞こえる。遠くの空で、何千場ものカラスも鳴いている。

 

追記1 — いま、ニュースステーションで、恐るべき事実を知った。◯◯市の水道は、ほぼ全域で断水しているとのこと。pm 9:258

 

追記2 — 今日の地震に関する記述は、多少誤りがあるかもしれない。初期微動が実際にあったのかどうか9、あるいはいきなりドーンと来たのかもしれない。ともあれ、これまで私が経験したことの無い、きわめて強い地震であったことに違いはない。まして、もう一度経験するなんていうのは、もっての他である。

 

幸い、体の上には何も落ちてこなかった。酒の瓶も割れなかったようだ。(何故なら、酒の匂いがしない。)

時間を知ろうと頭を動かして、ミニコンポのタイマーをみた。しかしいつも見えるはずのところに、タイマーが見えない。テレビの主電源の光も消えている。どうやら停電らしい。

枕元に、もうひとつ置いてある、目覚まし用の時計を探してみる。ちょっと離れたところで倒れて、無常に秒針の音をたてていた。

am 5:55 分。部屋はおろか、辺りは夜明け前の深い闇に包まれている。

意を決して布団から跳ね起きる。窓の際に、机があるのだが、そのすぐ横の本棚に置いていた地球儀が、机のうえに落ちている。窓を開けると、目の前には見事なまでの闇があった。あちこちの家の内側から、懐中電灯の光が明滅している。救急車のサイレンも、多数聞こえる。

 

追記 — また今、二連続の余震あり。1/18 am 12:55

 

かなり寒い。どうやら雪も降ったようだ。車のうえに、斑もように、雪が積もっている。窓をしめ、暖をとるため布団に戻るが、ほんの少しの間に、すっかり冷えている。そういえば、停電していて、布団の下のホットカーペットも、消えているんだった。

それにしても、癖、というのは恐いものだ。停電しているのを忘れて、テレビを点けようとしたり、トイレに入るのに、証明のスイッチを入れてしまう。テープや、CDを聴こうとしたり、TVゲームをしようとしたりする。そのたびに停電のことを思い出すのだ。なかなか寝付けない。余震が何度も続いている。

家の中は大丈夫なのか。ガス漏れなんか起きてないのか。そういったことを考えながらも、行動に移さない自分自身を不思議に感じた。どうやら、雷や台風を非常に好きなこの僕も、この地震には、かなり恐怖を感じているみたいだ。

 

追記 — さっきから電気がちかちかしている。また停電するんじゃないだろうな。am1:15

 

ふと、地震の原因について考察を繰り返す。いや、考察というよりも寧ろ、空想の類に属するものかもしれない。

大阪湾に海底火山でも出来たのだろうか。あるいは、二上山や、甲山10が再び蘇ったのかもしれない。いや待てよ、ある人がいっていた、甲山のピラミッドが具現化11し始めているのか。

……ったく、くだらない想像だ。これは情報が全く入らないことによる、発作的症状かもしれない。停電によって、在りとあらゆる情報が遮断されている。簡易ラジオや、携帯テレビでも持っておけば、と今更ながら後悔してしまう。あの群発地震の時に、この日の事を予想しておけばよかったのだ。

……ともかく、さっきから余震は続いているし、サイレンもずっと鳴りっぱなしなのだから、ただ事ではないはずだ。僕は、情報に飢えていた。

そこへ、隣の家からラジオの音が聞こえてくる。

『震源は、淡路島北部、マグニチュード 7.2……』

耳をそばだてて聞いてみたものの、そこまでしか聞き取れなかった。

M7.2 といえば、かなり大きい方である。でも、この時点では、さほど驚きもしなかった。驚くには、あまりにも、情報が少なすぎるのである。

親の部屋で、目覚ましの鳴る音がする。時計を見る。6:30。窓越しに、夜が明け始めているのがわかる。余震が続く。

親が一階に下りていく音が聞こえる。そしてなにか叫んでいる。どうやら、父らしい。みずやの中の、コップや茶碗が割れているみたいだ。しばらくすると、母も下に下りていき、割れ物の処理をし始める。

もちろん、ぼくは自室で寝転がっているので、またもや想像の世界に陥ってしまう。僕の頭の中には、ガチャガチャに壊れた、みずやの姿が浮かんでくる。また、居間の戸棚も割れてしまって、部屋中に散らかっている様子も、浮かび上がる。いったい、家の中の家具を復旧させるのに、いくらかかるだろうか。家の者は、怪我をしていないだろうか。

そんな想像に耽りながらも、周囲の音には、敏感であった。余震の前には。12かならず独特の地鳴りがある。それは、例えば、ダンプ車の通ったときのような類の音とは、また違う。地の底の唸りが、同時に大気をも震撼させながら迫ってくるような感じである。

僕は、重低音、という音に対して、非常なまでの嗜好を持っているが、さすがに、この地鳴り、というものの重低音は、心臓を一瞬フリーズさせるだけの効果がある。そして、その地鳴りは、ずっと止む事無く、家をかたかた震えさせる、というおまけつきで、何度も僕の心臓を凍らせようとしているのであった。

さらに、僕の耳は、近隣の家々の、割れ物を処理している音までも捕らえた。他の家も同じような事になっているんだな、と、素直に感じていた。

そうこうしているうちに、祖母も部屋からでてきて、父と話している。何を話しているかは、書く迄もない。だれもこんな時に、お早う、いい天気やな、等と平然といって抜けるような間抜けはいないだろう。

それでも、僕は起きださなかった。ホットカーペットの電源も切れているのである。そう簡単に、この布団を冷やす訳にはいかないのだ。

というわけで、時折、電気が復旧していないかと、ミニコンポや、テレビをみる為にごろごろするくらいで(無論、ミニコンポたちは、低く沈黙したままである。)、他には、何もすることもなく時の経つままにしていた。そういったルーチンワーク(ワークでは無いような気もするが)を、何度繰り返しただろうか、誰かが階段を昇ってきて、僕の部屋のドアをけたたましくノックした。この家のしきたりどうり、返事する迄もなくドアは跳ね開けられる。

母親である。

「バイク13倒れてるから、起こして。」僕の背筋を、悪寒が突き抜けていった。布団の温もりが失われることに、少し未練を残しながら、下へ駆け下りていく。玄関のドアを開けると、鉄格子の門に寄り掛かるようにしてバイクが倒れていた。ガレージに通じる勝手口を抜けて外に出て、慎重にバイクを起こす。鉄格子の間に、ミラーがはまっていたが、とりあえず割れている、等の被害はない。思わず、ホッと息をつく。一通り、ダメージが無いのを確認すると、バイクを少し傾斜のある、倒れにくいところに置き直した。

それにしても、この鉄格子の門を見る度に、一年ほど前のことを、思い出す。実は、この鉄格子の門、今は使えない。なぜなら、門の閂が折れてしまっているからである。

一年ほど前、バイクを洗って、ワックスを塗っているときに、サイドスタンドのない方向に、力余って、押し倒してしまったのである。バイクは、門に寄り掛かって倒れたので、それがクッションになって、大してダメージを受けなかった。その時も、今回と同じように慎重にバイクを起こして、ほっとしていたのだが、門の方は少しダメージを受けていたのだ。閂が、真ん中で、ぽきりと見事に折れていたのである。

以来、この門は、出入り用には使われていない。閂の代わりに紐でぐるぐるに縛って、開かないようにしたのである。

そうそう、そういえばその時、一緒にいたコロ(我が家の愛すべき飼い犬である14)も、結構ビビっていたっけ。

 

太陽も、すっかり◯◯山から姿を現し、雲は出ているものの、晴れわたっていた。僕は急いで部屋に戻り、布団に潜り込んだ。すっかり冷えてしまっている。僕は、布団のなかで、丸くなり、再び温もりを取り戻す作業に集中した。徐々に温もってくると、今度は、手足をのばし、敷き布団にこすり付け、その摩擦熱で布団全体を温めるのである。

一番下の弟が、学校に行こうと玄関を出る音が聞こえる。父は、いつのまにか会社に出掛けている。

地鳴りがまた迫ってくる。毎度のように、部屋のガラス戸や窓がかたかたとなる。が、今度のは大分強い。もちろん、本震に比べるとまだまだ弱いが、それでも僕の心臓は、高鳴っていた。7:30分であった。

こんな調子では、眠ることが出来ない。出来ることならもう少し眠りたいのだ。しかし、それに反して、今にも停電が復旧し、情報を仕入れることが出来るかもしれないという希望もあった。

しかし、救急のサイレンがなっている以外は、いつもどおりの平和な朝である。火事も起きていない。ガス爆発の音も聞こえない。家のほうも、停電以外は、ガスも水も平常通り使えるみたいである。そして、何よりも、小鳥の囀りが、日常的な平和を思い出させているのかもしれない。

電話がかかってきた。8時すぎである。恥ずかしながら、停電していても 、電話が繋がるとは思っていなかったので、はっきりいって吃驚した。

電話の相手は、大阪の◯◯に住んでいる、U であった。向こうの方でも結構大変なことになっているようである。彼もバイク(250cc)を持っているのだが、地面が隆起してしまって、出せなくなっているらしい。が、大阪の方では停電していないらしく、テレビなどから情報をえており、様々な、怖ろしい現状を聞くことが出来た。

阪神高速が倒壊した。………阪急、阪神電車が軒並み脱線、或いは、高架が落ちている。………神戸、西宮方面で十数箇所で火災が起きている。………倒壊家屋から、数多くの死傷者が運び出される。………コンクリートのビルが倒壊………。

体に、悪寒が走る。記憶の中から、数年前のサンフランシスコの震災が、思い出される。

 

追記 — 今放映されている、NHKスペシャルで、例の群発地震は、今回の地震の前兆であった可能性が高いという。京都大学にある研究所15によると、94' 6月頃から福井をはじめとして、京都と地震が起きており、94' 10月頃、猪名川町で群発地震が起きていたことが判明。つまり、北から徐々に南下してきていたというのだ。関西テレビでの特集によれば、この群発地震は、大きな地震に繋がる可能性は低いとしていた。問題は、京都大学の研究所で、それだけの事が判っていながら警告を発しなかったこと、また、マスコミでも一連の群発地震のことを、大きくは取り上げず、視聴者に警戒を促さなかったこと、そして市民が関西には大地震はない、という先入観にとらわれていた事があげられる。過去において、関西における大地震の可能性を訴える学者などは数多くいた。確か、探偵ナイトスクープでも、戦時中の関西での大地震のことを取り上げていた事もある。そこでもやはり、50年ほど後(つまり、今)に地震がくる可能性が高いともいっていた。また、数年前に雑誌「◯◯」でも、関西での大地震の可能性を警告する特集が組まれていた(これは、興味深かったので、僕はずっと所有している。)この記事のなかでは、今、有名な活断層が関西圏に犇めいていることが、地震の可能性を訴える理由となっていた。

済んだ事だから仕方がない、といえばそこまでである。然したる僕も、こんな大地震が起きるとは思いもしなかった。

追記 — 追記のなかに追記があるというのは、何とも見苦しいが、たった今、有感地震があった。1/20 PM 10:20

 

確か、故安部公房が口癖のようにいっていたが、私達は遠い未来よりも近い未来に対して、非常に鈍感らしい。彼の言葉を引用してみれば、

いくら核戦争の危機が近いと感じていても、5分以内に核戦争が起きる方に賭ける気にはなれない。それが人間の日常感覚というものなんだ。

新潮文庫 「死に急ぐ鯨たち 」 安部公房著

 

そういった意味で、皆同じであるし、だれに責任がある、なんていうことを問うつもりは、まったく無い。(地震予知、ということに関する責任であり、地震後の救急体制の不味さに対する責任は別である。)
むしろ、問題は、マイノリティを肯定出来ない社会的基盤16ではないだろうか。この事は、じっくり考えてみる必要がありそうだ。1/20 PM 10:40

 

冗談だろう、夢なら醒めてくれ、これが夢なら、かなり趣味の悪い悪夢だ。

電話を切った後も、少し放心してしまっていた。

居間の戸棚も、食堂のみずやもたいした被害はなかったが、大して、安堵感もなかった。

関西は、これから飛躍しようとしているのに17

全く僕は、意気消沈してしまっていた。筆舌に尽くしがたい気分、というのがまさに当てはまる。妙に悲しい感傷に陥っていた。

部屋に戻る。床につくと布団は、すっかりと冷え切っていた。

弟が帰ってきた。阪急電車は止まっていて(そりゃそうだろう)、学校に行けなかったらしい。

窓からは、朝の暖かな光が差し込んでいた。

余震も、サイレンもずっと続いている。

それ以外は普段と変わらぬ、日常的な世界が、少なくとも、ここには広がっている。

1995/1/17 - 1/20
1995/1/20 pm11:05 記之

 

1.17 朝の一幕 — 阪神大震災の記録 — その後

いかがだったでしょうか。

自分で言うのもなんですが、だらしない生活をしてたもんだなぁ、と思います。

当時私の住んでいた宝塚東部地域は、神戸市や、同じ宝塚市でも旧国道沿18いの地域に比べると、被害は少なかったため、そんなに悲壮感や緊迫感はありませんでした。

それにしても、誤字脱字も多いし、所々に当時ハマっていた安部公房の文体を真似しようとしている形跡もあるし、このまま公開するのも憚れますが、まだ、二十歳そこらの若造が書いたものなのでここらへんは目を瞑ってやってほしいですw。

実は、この手記、続編があるんです。

震災の翌日、1995年1月18日、陽の明るいうちに西宮北口から徒歩で三宮の会社に向かった父へ、布団や食料を差し入れるために、夜遅くに単身バイクで神戸三宮を目指す、という内容。

芦屋の岩園町、あちこちに段差の出来た道路を乗り越え、
東灘区では、黒煙と赤い炎を上げる火災の消火作業が続く横を抜け19
あちこちに投光器が照らされ救助活動が夜な夜な続く山手幹線を通り過ぎ、
歩道から車道に溢れた瓦礫と、その上を黙々と歩く神戸に向かう人、黙々と歩く神戸から離れる人を横目に、
やがて着いた、完全にゴーストタウンと化した加納町の交差点・・20

そして、いつの間にか言葉を交わすことがなくなっていた父との対話。

そんなこんなを書こうとして、途中まで書いて未完となったものですが、今はどこに埋もれているのやら・・。

 

読後感

多分、あまり多くの人には読まれないであろうから、自分なりの感想を・・。

ちょうど地震発生直後から、約2時間半ほどの間のことを、震災当日から3日ほどかけて書き上げており、手記を書いている最中に起きた余震や、ニュースの報道などをあちこちに「追記」と言う形で、文書の途中に挿入していて、書いている時のの臨場感がなんとなくわかるような気がします。

当時私はドロップアウト寸前の大学生で、自分がこれからどうするのか、どうしたいのか、そんなことを完全に見失っている状態。

そんなときに発生したこの大震災は、ただでさえ弱りきった自分の心に、更にえぐるようにポッカリとした大きくて空虚な穴を開けました。

そして、その後数年間、鬱々とした日々を過ごすことになります。


  1. 当時は、「兵庫県南部地震」とも呼ばれていました。 

  2. 猪名川町のうち間違えだと思われる。 

  3. 時々、ロシアからトンネルを掘ってきているのではないか?と、無意味な空想をはたらかしていたこともあります。 

  4. 国道176号線。通称「いなろく」。川西市から宝塚の間は、阪急やJR沿いに西進する「旧道」と、中国道の側道として、大阪の中央環状にバイパスする「新道」があります。このニュースでの176号線がどちらを指すのかは不明です。 

  5. ハウスクリーニング系のバイトをしていました。 

  6. SONY タイマー付きのミニコンポ。左右のスピーカーは、それぞれ低音用と高温用のスピーカーに分離できました。 

  7. まさにこの文書を書いていたワープロ。枕元で寝ながらワープロ、略して寝ープロできるように置いていました。 

  8. 私の住んでいる地区では、2週間近く断水していました。 

  9. 地鳴りで目が覚めているから、きっと初期微動のようなものはあったのでしょう。 

  10. 二上山は奈良と大阪の府県境にある、昔にあった火山の跡で、甲山は、六甲山の東端にある、これもまた火山の跡。いずれも一千万年以上前に火山活動は終息している。 

  11. 甲山が属している六甲山の周辺には、カタカムナ文献のような古の文明の話や、UFO 目撃情報など、チョットしたオカルトの噂があちこちにあります。 

  12. ここは、句点ではなく、読点を打つつもりだったと思う。 

  13. Honda の 1987年製 CBR 250R。初代のハリケーンです。 

  14. 雑種。1992年か3年くらいに家にやってきた。 

  15. 今となっては定かではないけれど、おそらく「研究室」の間違いだと思われます。 

  16. 学生にはありがちだけれど、当時は結構リベラルだったんだろうなと思わせる部分ですね。今だと、ノイジーマイノリティーっていう事柄について調べてみたいと思うかも。 

  17. この前年である 1994年9月、関西国際空港が開業しています。 

  18. 旧国道176号線沿い、とりわけ阪急山本から中山、売布神社あたりの一体は、その周辺の地域より明らかに大きな被害を受けており、市内でも最も多くの犠牲者を出しました。 

  19. 帰るころ、この地域はバイクでも侵入できなくなっていました。 

  20. 普段は下道で1時間から1時間半くらいでつく神戸三宮に、3時間程度かけて着きました。 


 

 

zaturendo

中小企業社内SE。

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